デジタル哲学で心が啓く・可能性が弾ける

どこまでもオープンな心で、平等で対等な関係性でAI時代に人間最高の機能を発揮する。

私もあなたも、やまとなでしこ。

Ma-Pa代表のちぐさです。

本日も、訪問いただきありがとうございます。

 

言葉にはならない。

だけど、どうしても伝えたい。

そんな想いを今日は書きたいと思います。

 

雪の如く 清らかに

月の如く 明けらけく

花の如く なでしこの 強く優しく

 

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私が通っていた高校の石碑に刻まれた言葉です。

高校生の私には、表面的な事しか受け取れませんでした。

深い意味など、考えることもなく、

なんとなく、静かでおしとやかなで清楚な女性のイメージでした。

なでしこのような女性になるなんて、

私の性格的に似合わないでしょ!って決めつけていました。

 

 

雪のように清らかな心。

月のように明るい心。

なでしこの花のように

おしとやかであり繊細な美しい心。

強く優しく心。

 

日本に生まれ。

日本に育ち。

当たり前に、日本人だと思って生きてきた今まで。

日本がどんな国なのか?

日本にどんな歴史があるのか?

日本の誇りが何なのか?

を知らずに、知ろうともせずに生きていました。

 

かと言って特に、海外に目を向けるわけでもありませんでした。

 

生まれ育った地元も、

引っ越した場所も、

歴史も知らなければ、

どんな魅力があるのかも知らない。

 

世界と日本の関係も、

日本と海外の違いも知らない。

 

未来の事を考えると、

何かしなきゃいけないような気がするけど、

どんな道があるのか分からない。

 

今、生活できているし、

身近で凄く大きな問題が起きているわけでもない。

 

この世界から、戦争や紛争などの争いがなくなって欲しい。

平和な世の中になってほしい。

そう願っても、自分と世界が繋がらない。

 

 

ある日突然、

そんな私、今までに感じた事がないほどの…

敢えて表現するなら「魂が震える!」

そんな大ショックな出会いがありました。

 

自分の中に眠る大和の心。

大和魂、侍の精神に出会ってしまいました。

 

ここまで日本の可能性、魅力を語ってくれる人がどこにいるだろうか!

 

日本人以上に侍の心を持ち、

大和魂を語ってくれる。

 

日本の可能性、人間の可能性、世界の可能性を揺らぐ事のない確信で語ってくる。

 

そんな人に出会ってしまいました。

 

今まで、考えたこともない話。

イメージした事もない話。

言葉には表しきれない深いイメージが入ってきて、

魂が震え、

感動の涙と出会いの歓喜の涙、

同時に悔しい涙が溢れてきました。

 

日本人なら、未来の事を考えるなら必ず出会ってほしい!

 

あなたの中に眠る大和魂

 

心に出会って初めて本当のやまとなでしこになれる。

 

2020年東京オリンピックの時に、

世界を魅力して、虜にする、やまとなでしこになりましょう♪

愛し合っていたはずの2人なのに。永遠を誓った愛はどこへ。~my story⑥~

Ma-Pa代表のちぐさです。

本日も、訪問いただきありがとうございます。

 

今週のお題「おとうさん」について書きたいと思います。

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私にとって父とは

とっても大切な存在でした。

口数は少ないけど、優しいお父さん。

 

父は20歳の時に、バイクで交通事故にあったらしく、

左足が不自由で、走ることができませんでした。

 

車いすで移動するほどではなく、

自分の足であることは出来ましたが、

引きずりながら、

手すりにつかまったり、

杖を突きながら歩いていました。

 

思春期のわたしにとって、

父と一緒に歩くことは、

とても面倒に感じていました。

 

決して父のことが嫌いなわけでないけど、

父の歩くスピードに合わせなきゃいけないし、

杖の代わりに支えにならなきゃいけない。

そんな、ちょっとしたことが面倒に感じていました。

 

でも、学校から帰ってきたら、

父の仕事の手伝いで配達へ付き添う日々。

 

配達への行き帰りの車中は、

私が唯一安心して何でも話せる時間でした。

 

何を言っても怒らないし、

聞いてるのか、聞いていないのかも分からないくらい、

反応は薄いのですが、

お互いに感じている事が似ていたり、

考えの基準が似ていたり、

共感してくれることも多かったのです。

 

父と母の関係

私が高校に入り、

自分の世界が広がり始めたときには、

父と母の関係は冷めており、

言葉を選ばず表現するならば冷戦状態でした。

 

寡黙な父とは違い、

物事をはっきり主張する母。

 

父の口数の少なさに、

イライラする母。

 

そんな、母の姿をみて

「あー、またか。。。」

と、自分の仕事部屋へ逃げるように立ち去っていく父。

 

その父の行動をみて、

またイライラする母。

 

いつも堂々巡りの2人。

 

そんな2人の間に仲裁役として入るも、

窮屈に感じる私。

いつの日か、父よりも母に対して面倒くささを感じるようになっていました。

 

父との突然の別れ

弟は、地元から少し離れた高校へ進学しました。

父と母と私の3人での生活が始まりました。

 

母は、仕事にPTA・地域の役員、宗教の活動に忙しく、

父と母がまともに会話することは減っていました。

私が伝達係になることも。

 

そんなある日。

父との突然の別れがやってきました。

 

13年前の6月22日。

父の日の3日後。

父は帰らぬ人人となりました。

 

朝、学校に行こうと家を出る準備をしていた時、

母が

「お父さんが、昨日お布団に入ってないのよね…。」

そう言って、父の仕事部屋を覗きに行った瞬間、

母の言葉にならない声が聞こえてきました。

「お父さんが…お父さんが…お父さんが……」

 

仕事をしながらそのまま倒れたようでした。

死因は、腎不全。

15年間、透析を行っていた父は、

前日の夜も通院し透析を行ったばかりでした。

 

突然の出来事で、一番母があたふたしていました。

 

最後まで話さなかった2人

父が亡くなる前日も、

その前の日も、

父と母が話す姿を見る事はありませんでした。

 

2人は永遠の愛を誓いを結婚したはずなのに。

 

いつの間にか、2人の間には溝ができ、

修復できない状態になり、

お互いが思いを確認することもないままに

別れを迎えました。

 

父がどんな思いで生きていたのか?

何を考えていたのか?

父は母のことをどう思っていたのか?

確認はできません。

 


言葉にして、行動にして、
お互いの気持ちを確かめ合う事が出来なかった父と母ですが、

 

でも、2人が愛し合っていて、永遠の愛を誓ったことは、

間違いないと思います。

 

ちょっと別れが早かっただけ。

 

もう少し時が経てば、

お互いに話し合ったり、確認し合ったりできたかもしれません。

 

父に伝えたいこと

私は、お父さんの子供として生まれてこれて

本当に良かったです♪

 

お父さんの頑固さも、

お父さんの負けず嫌いも、

お父さんの手先の器用さも、

お父さんの不器用さも、

お父さんのシャイなところも、

私のDNAの中に組み込まれています。

 

お父さんがいてくれたから、

中学・高校時代を乗り越える事ができた。

お父さんが、

どんな話でも聞いてくれたから、

ひとりで抱え込まなくて済んだ。

 

本当にありがとう!!

 

父がどんな生き方、どんな人生を歩もうとしていたのか分かりませんが、

父との時間で感じた事を

これからの出会いに生かしていきたいです^^

 

言葉にしなければ、

行動にしなければ、

伝わらないことはたくさんあります。

 

それと同時に、

言葉にしたら伝わらないこと。

言葉には、発信する側・受け取る側、

それぞれにイメージが違う事もあれば一致する事もあります。

行動にしたら伝わらないこと。

自分からみて良かれと思った行動が、

相手にとっては、マイナスに感じる事もあります。

 

どこまでの深さで相手を理解できるのか?

違いからではなく、人間共通から理解し合える関係性を増やしていきたいです。

 

人と人の出会いが、

我慢で始まるのではなく、

本音で始まる関係性を創っていきましょう♪

 

裁判という経験を通して感じた事。~my story⑤~

Ma-Pa代表のちぐさです。

本日も、訪問いただきありがとうございます。

 

前回も「どうせ人は分かり合えない。」と思っていた、

私の経験について書かせてもらいました。

人に対して「諦め」を感じていませんか? - やまとなでしこ八変化♡

 

今日は、「どうせ人は分かり合えない」って、

無意識に深く深く刻み込んだ事件をご紹介します。(笑)

 

入学してすぐに

新しい制服。

新しい校舎。

初めてのバス通学。

期待のドキドキとわくわく。

不安のドキドキとソワソワ。

 

高校へ入学して、1週間が過ぎた日の朝、

学校へ行くとクラスメイトから声を掛けられました。

 

A:「ちぐさ、今朝の新聞みた?」

私:「え?なんの記事?見てなーい!」

B:「この学校、閉校するらしいよ!」

私:「え?この学校???」

A:「うちら、入学式終わったばっかりなのにね…。」

B:「どうなるんだろうね…。」

 

その後、朝のホームルームの時間に緊急全校集会が開かれ、

新聞に載っていたことの説明がされました。

 

校長:「今年度の新入生の卒業と同時に、この学校は閉校します。」

 

・・・・まじか!!

 

・・・・なんとも言葉にならない感じでした。

 

闘いの始まり

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閉校の決定について、

みんなが黙って受け入れれるわけがないですよね。

 

色んな考え・基準がありますし、

学校に対する思いもそれぞれ違います。

 

約100年の歴史を持つ高校だっただけに、

卒業生の保護者もいました。

 

先生の中にも、卒業生がいました。

 

理事長・学校を相手に、立ち上がった保護者・先生方が裁判を起こしました。

閉校を撤回する事、慰謝料の請求をする裁判でした。

 

私にとって、閉校というものは寂しいことではありましたが、

卒業までこの学校に通えるなら問題ないと思っていました。

 

だけど、もし学校が残せるなら残したい。

 

決起集会に、

署名活動。

演説活動。

 

普通の高校生では経験できない事を経験しました。

 

理事長側が言いたいこともわかるし、

保護者側の言いたいこともわかる。

 

お互いにとって、ベスト解決策はないのでしょうか?

 

お互いの意見を通すことで必死。

自分たちの意見が不利にならないようにすることで必死。

それは、まさに闘いです。

相手の立場を考えてしまったら、

自分たちの意見を押し通しにくくなる心もあるでしょう。

相手の事を無視もできない。

相手に合わせる事もできない。

常に、闘いでした。

 

どちらが良いのか?

学校を存続させることが良いのか?

学校を閉校させることが良いのか?

 

どちらが良いのか?

それは、土の立場から観るかでも変わるでしょう。

 

絶対に正しい判断という事はないでしょう。

 

そんな中で、裁判官は判断を下さなければなりません。

たくさんの情報を整理して、

どちらかに偏って見解からではなく、

どちらにも中立な立場からの見解で判断を下します。

 

保護者・先生・・数人の生徒の一人として、

私も裁判所での判決に立ち会いました。

 

結果は「敗訴」でした。

 

学校を存続させたいという思いは叶いませんでした。

 

裁判という経験を通じて感じた事。

当事者同士では、何も解決しないことも

第3者や、公的な力・法的な力によって解決することはあります。

 

しかし、本当の意味での解決はしていないと思います。

 

お互いが本当に理解し合って、

結論に納得できているか?と言うと、

そんな簡単に納得できないと思うので。

 

論理の納得だけではなく、

感情の納得も必要だと思います。

 

だけど、感情が納得するなんて難しすぎる。

感情を押し殺して、

我慢することが多いのではないでしょうか。

 

私が裁判を通して感じた事は、

形的には解決できたとしても、

心は解決できていない。

本当に、お互いが理解し合って、分かり合って、

解決することは難しいという事です。

 

分かり合うためには、我慢がつきものだと思いました。

 

我慢するという事。

分かり合えるはずがないという事。

 

 

本当に、人が分かり合う事はできないのでしょうか?

 

 

人に対して「諦め」を感じていませんか?~my story④~

Ma-Pa代表のちぐさです。

今日も、訪問いただきありがとうございます。

 

私から丸裸に語る~まっぱなわたしシリーズ~で

気づかないうちに八方美人になっていた。 - やまとなでしこ八変化♡

を書かせてもらいました。

 

八方美人になることで、

友達に嫌われることもなく、

先生からの評価も得る事ができ、

親に学校の生活態度や友人関係で心配させることもない。

大きな問題もなく、小学校生活を楽しんでいました。

 

だけど、順調な毎日を脅かすきっかけによって

私は「どうせ人は分かり合えるはずがない」という諦めを

感じるようになりました。

 

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人に対して「諦め」を感じた事はありませんか?

どうせ話を聞いてもらえない。

どうせ受け入れてもらえない。

どうせ理解してもらえない。

どうせ応援してもらえない。

どうせ認めてもらえらえない。

 

「どうせ人は●●●なんだ。」

って、諦めを感じた事ありませんか?

 

その諦めは、なぜ生まれるのでしょう?

 

どうせ人は分かり合えるはずがない 

私には、この諦めが強烈にありました。

中学1年くらい?の時、

いつもは家族がそろっている時間に、

母と弟が帰って来なかったことがありました。

 

私は心配になり、父へ母と弟が帰ってきていないことを伝えました。

「何か事故に巻き込まれているのではないか?」

心配で心配で居た堪れない気持ちでした。

 

当時、外回りの仕事をしていた母は携帯を持っていたので

携帯に電話をしますが、繋がりません。

 

父に電話が繋がらないことを伝えますが、

父は

「そのうち帰ってくるから大丈夫でしょう。」

って、大して心配している素振りもなく、

いつも通りに過ごしていました。

 

 

それから何時間か経って、

母と弟が帰ってきました。

 

あまりにも帰りが遅くて心配したことを伝えると

 

「ごめんね。Y(弟)を連れて踏切まで行ったんだけど、死ねなかった。」

 

・・・・・・・・。

・・・・・・・・。

あまりにも衝撃的な言葉に、

ショックでした。

 

母が弟を連れて死のうとした事。

そんな、緊急な状態でも父はいつも変わらない態度である事。

 

何も、わかっていない。

人は、分かり合えないだ。

それぞれの思いが繋がっているようで、繋がっていない。

家族なのにバラバラなんだな。

って悲しくなりました。

 

諦めの心を封じる言葉

人は分かり合おうとしても、分かり合えない。

 

私がどうにかしようとしても

どうにもならないんだ。

 

そんな私の諦めの心を封じたのは

「神に祈ること」

いつ、どんな時でも神は近くにいてくださる。

いつ、どんな時でも神は力を与えてくださる。

 

何か問題が起きたときは、

まず、自分で何かしようとする前に「神に祈ること」で

諦めの心を封じて、前に進めるようにしました。

 

そうする事で、

人間関係を壊すことなく、

自分の居場所を失うことなく過ごすことができました。

 

諦めの対処法

私の場合は、「神に祈る」という事でしたが、

 

お寺や神社に行って心を落ち着かせたり、

雑誌やネットで占って相性をみて納得したり、

人に興味を持たないことで諦めを感じないようにすることもあるでしょう。

 

諦めを感じないようにする状況を創ったり、

諦めをプラスに変換できる情報を集めてみたり、

それぞれの対処方法があると思いますが、

 

本当に解決できているのでしょうか?

 

対処療法では、諦めは無意識に働いてしまいます。

明確な、根本原因を理解することをおススメします!

気づかないうちに八方美人になっていた。~my story③~

Ma-Pa代表のちぐさです。

今日も、訪問いただきありがとうございます。


丸裸の出会いを広げていくために、

まずは、私から丸裸になって語る第3弾です!!(笑)

 

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前回は、お友達が欲しくて、

「みんなとは違うわたし」が仲よくなるために

身につけた術について書かせていただきました。

わたしがみんなと仲良くなるために選んだこと。~my story②~ - ✴︎やまとなでしこ八変化✴︎


大きな夢は叶えられない。

せめて、身近な夢は叶えたい。

そのためには、人に合わせる事で叶えることができるかもしれない。


洞察力を働かせるという事。

「人に合わせる」というキーワードを

さらにバージョンUpさせる教育がありました。

 

それは、母からの「洞察力を働かせなさい」という教育です。

 

ただ、人を見て真似て合わせるだけではなく、

目の前の人がどんな思いを頂いているのか?

何を考えているのか?

何をしてほしいと思っているのか?

 

目に見える表情や言葉、行動だけで判断するのではなく、

相手の気持ちを考えなさい!と、

何度となく教育されました。

 

例えば、お友達が消しゴムを忘れて困っている。

というシチュエーションがあるとします。

この状況の時どうしますか?

 

「あ、消しゴムなくて困っているんだ。貸してあげよう!」

そう思って、消しゴムを差し出すこともあるでしょう。

 

人によっては、気づかないフリをする事もあるでしょう。

 

消しゴムを差し出す前に、「どうしたの?」と声を掛ける場合もあるでしょう。

 

 

友達を作るために、人と仲良くするために、

人に合わせてみるところから、

とにかく相手を洞察して、

今、私はどうするべきなのか?を考えるようになりました。

 

だけど、子どもだったわたしは、

お友達ができて、

嬉しくて、楽しくて、

思ったことをストレートに言ってしまう事もありました。

 

寂しい、悔しい、悲しい事件

人の気持ちを考えて、

人がしてほしいと思う事を選択し、

行動するように、

洞察力を働かせて行動することを訓練する中で、

わたしにとって、寂しくて悔しくて悲しい事件が起こりました。

 

それは、小学校2年生?くらいの時の帰り道の事。

 

わたしと同じ小学校に通う同級生で

わたしと同じエホバの証人の双子の女の子がいました。

 

その双子ちゃんと我が家に向かって一緒に帰っているときに

わたしが何気なく

「Kちゃんって、男の子っぽいよね!^^」

って言った一言がKちゃんを傷つけてしまい、

 

その事が、Kちゃんから母に伝わりました。

 

悪気のない一言によって、気づ付けてしまったこと。

 

この事は、母から厳しく怒られました。

我が家に集まったみんなは、

庭で楽しく遊んでいる中、

わたしだけ、子ども部屋に閉じ込められ、

反省させられました。

 

傷つけてしまった事に対して、

なぜ、あんな事を言ってしまったのだろうか。という後悔と申し訳なさ。

 

わたしが、なんで「男の子っぽい」と言ってしまったのか?を

言葉だけで判断されることの悔しさ。

 

お母さんを怒らせてしまった事の悲しさ。

 

そして、みんなが遊んでいるときに一緒に遊べない事の寂しさ。

母に、わたしの気持ちを理解してもらえない寂しさ。

 

母に叱られた時、

委縮して、自分が何を考え、何を思っているのか、

ありのままに伝える事ができませんでした。

 

 

そして。。。

洞察力を働かせなさい!って、

いつも口を酸っぱくして言っている母に対して、

絶望感を感じました。

 

わたしの気持ちは分かってもらえないんだ!!って。

だから、わたしはこの瞬間に母に対して、

「絶対、本音で話してやるもんか!」と決断しました。

 

 行き場のない本音。

わたしの発した言葉は、

受ける取った相手にとっては、

本当にショックで、傷つけてしまう言葉だったと思います。

でも、わたしにはその事を口にする事で

創りたかった友達との関係性がありました。

何でも言い合える関係性。

何でも許し合える関係性。

どんな事でも楽しめる関係性。

でも、子どものわたしの持つ理想は、

「こうしたい!」って思いがあったとしても

それを具現化する方法は分かりません。

 

未知の世界だらけ子どもにとって、

親からの教育はとても影響が大きいものです。

良い人間関係の作り方は、

相手を思いやる事。

自分が話すよりも、聴くことに早くある事。

いつも温和である事。

我慢強くある事。

親切である事。

そして、何より洞察力を働かせる事。

 

その結果、どうなったか?と言うと、

自分の心がどう感じてるか?

自分がどう思っているのか?と言うことよりも、

相手がどのように感じ、どのように思うのか?を軸に

考えることを習慣にしていました。

 

わたしの中にある「本音」は行き場がなく、

静かにしまい込む。

時に相手の意見と同じ時には、その本音を出す。

でも、基本は相手がどう受け取るか?で判断して話していました。

 

自分の「本音」が何かも分からず、

相手の基準に合わせるコミュニケーション、

相手の基準に合わせて行動する事で、

自然と八方美人になっていきました。

 

「八方美人」は、自分の基準を捨てて、

相手の基準に合わせて生きることのできる究極の技です。

嫌われものになる事もあります。

 

それでも、自分の本音を言って傷つけてしまうより、

相手に合わせて相手の喜ぶ事を言い、

相手の喜ぶ行動をする方が、

わたし自身も喜べるし、楽しめていました。

 

せっかく仲良くなったお友達が、

離れていってしまうのは避けたかったから。

友達がいなくなるのは嫌だったから。

 

 

母に対して、「本音を言わない決断」から

八方美人になる事で、

人に合わせている方が楽だと思い、

そして、いつの間にか八方美人である事も忘れるのでした。

 

続く。

 

わたしがみんなと仲良くなるために選んだこと。~my story②~

Ma-Pa代表のちぐさです。

今日も、訪問頂きありがとうございます^ ^

 

丸裸の出会いを広げていくために、

まずは、私から丸裸になって語らせて頂こうと思います。

 

前回、3歳の時に家出をした話を書かせてもらいました。

わたしが3歳の時に三輪車で家出をした理由。 - やまとなでしこ八変化♡

 

3歳で心の中で叫んだこと。

「大きなチャレンジをしたい!でも、私にその夢を叶えられるはずがないんだ!」

 

そんな私が、大きくなり小学校へ入学して、

どのように生きていく術を身に着けていったか?を今日は書きたいと思います。

 

なんだか、みんなとは違うようだ…。

夢にまで見た小学生!

ところがどっこーい!!

入学初日、そして翌日…クラスメイトから出てくる言葉に恐怖が。

 

「○○ちゃんは、どこの幼稚園だったのー?」

「わたしは、△△幼稚園ー♪××くんと一緒だったー♪」

 

・・・・・・。

 

 

私が行きたくて行きたく、

家出を試みてまで、行きたかった幼稚園の話題。

みんな、当たり前のように話しているのです。

 

・・・・・・。

 

そして、次の瞬間…

「ちぐさちゃんは、どこの幼稚園だったの?」

「うーん。私は、幼稚園も保育園も行ってないよー。」

「えー!幼稚園も保育園も行ってないだー!!!!」

 

すっごく驚かれたような。

 

この瞬間にわたしの心の奥で

「わたしはみんなとは違うんだ。。」

って、ショックをうけ、

でも、みんなと仲良くなりたいから、

どうすれば仲良くなれるか?を考えるようになるのでした。

 

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やっぱり、みんなとは違う。

小学校に上がる前から、

お友達がほしくて、お友達と遊びたかったわたしは

早くみんなと仲良くなりたい!と思って、

クラスメイトとどんな風に話して良いかも分からない中で

頑張って登校した日々。

 

 

入学して、2日目か3日目の事。

 

登校する前に家で、先生への説明を練習。

 

学校についてからわたしは先生に

「わたしは、エホバの証人なので校歌や国家を歌う事ができません。」

って、緊張しながらお話ししました。

 

(この内容は、宗教を批判するためのものではありません。)

 

みんなが当たり前にやっている事を、

わたしは出来ないことがありました。

 

音楽の授業で、校歌の練習があれば歌えないし、

お正月やこいのぼり、クリスマスなどの行事ごとの歌も歌えない。

校歌だけじゃなくて、国家も歌えない。

(子どもなり、神の基準に背くことになるから出来ないことは理解はしていました。)

 

この時、

「やっぱり、わたしはみんなとは違う。。」

って思ったのです。

 

みんなと同じようにしたいけど、全く同じようにはできない。

みんなと仲良くするためにはどうすれば良いのだろう…。

 

みんなと仲良くなるために身に着けたこと。

どこの幼稚園に行っていたとか。

どこの保育園に行っていたとか。

 

共通点がないわたし。

 

みんなが見ているテレビを見ていない。

みんなが見ているマンガを見ていない。

 

共通の話題がないわたし。

 

だから、みんなに合わせて、

自分が分からない話題でも、

みんなの話の中でついていくように頑張りました。

 

みんながどんな話をするのか?

みんながどんな反応をするのか?

を観察するようになりました。

 

これが、私が八方美人になる起源です!

 

「大きなチャレンジをしたい!でも、私にその夢を叶えられるはずがないんだ!」

という3歳の時の叫びをベースに

 

わたしの夢を叶える事はできない

→みんなと仲良くなりたい

→でも、わたしはみんなとは違う

→やっぱり夢を叶える事はできないのか

→みんなに合わせて様子を見よう。

→みんなに合わせていたら、なんか友達ができてきたかも…。

 

そう!

人に合わせる事で、「みんなと仲良くなりたい」という夢を叶えたのです。

 

 

続く。

 

 

わたしが3歳の時に三輪車で家出をした理由。~my story①~

Ma-Pa代表のちぐさです。

本日も、訪問頂きありがとうございます^ ^

丸裸の出会いを広げていくために、

まずは、私から丸裸になって語らせて頂こうと思います。

 

 

わたしが生まれたのは、父と母が結婚して8年目のことでした。

 

なかなか子どもに恵まれず、

母はお姑さんから、嫌みを言われる事もあったとか。。。

お姑さん…私からしたらおばあちゃんが他界した2年後に

わたしは生まれました。

 

待ちに待ったわたしの誕生

祖母が息を引き取るまで母は看病をしていそう。

嫌みを言われることもありながらも、

実の娘よりも、頼りにされていたらしいです。

 

そんな祖母の看病が終わり、落ち着いた時に生まれたわたしは、

「祖母の生まれ変わりなんじゃないか?」と思ったそうです。

しかも、予定日より3日遅れて父と同じ誕生日に生まれました。

 

父が36歳の誕生日。

病院からの連絡で駆け付けた父へ、母は

「はい!誕生日プレゼント♪」

って、わたしを差し出したそうです。

 

父は、口数が少なく、大きなリアクションをする人ではなかったのですが

凄く大事に抱っこしてくれていたとか。

赤ちゃんの私と一緒に写っている父の写真は、どれも嬉しそうな表情。

どことなく、にやけているように見える表情。

 

待ちに待ったわたしの誕生は父にとっても母にとっても、

喜びに満ち溢れていたのだろうな…と感じます。

 

だから、たくさんの愛情を注いでもらっていただろうと思います。

父の愛も、母の愛も独り占めの長女。

一人っ子時代を謳歌してたのかなぁ~(*^^)v

 

愛されている事が窮屈

父は口数も少なく怒ることもなく、

言葉では言わないけど、愛情を注いでくれている事を感じていました。

 

母は初めての子育てで、不安も多く、戸惑う事もあったでしょう。

とにかく子どもと同じ目線に立って、

一緒に楽しもうと、楽しませてくれようとしていたみたいです。

 

大事に大事に育ててくれて、

いっぱいいっぱい愛を与えてくれて、

子供のわたしにとって、お母さんという存在は大きいものです。

 

母自身は、6人兄弟の長女。一番目の子。

年子の兄弟たちがいる事で、親へ甘える事もできず、

厳格な父(私にとっては祖父)は礼儀など、躾に厳しかったそうで、

我慢することもたくさんあったのでしょう。

私も弟も、行儀よくすること、礼儀正しくすることは、

ありがたいことに厳しく躾られました。

 

そして、母は自分が子供のころに親に甘える事が出来なかった経験から、

私と弟に同じ思いをさせたくなかったのか、

自分の手元で育てる事を選択していました。

よく聞かされていたのは、

「幼稚園や保育園に預けて先生から成長を聞くよりも、お母さんの目で成長を見たかったの。」

っていう事。

母は、自分の手で育てる事にプライドを持っていたのだと思います。

 

 

父の仕事の関係で、母が配達に出かける時も一緒についていき、

ほとんど母と一緒に居る毎日。

楽しかった思い出がいっぱいあります。

だけど、わたしにとってずーっと母と一緒にいるのは

どこか窮屈に感じていたのかもしれません。

 

愛をいっぱいもらっているのに窮屈。

愛されていることが窮屈。

 

愛をいっぱいもらえばもらうほど、

親の期待に応えなきゃいけない感じがしていて…

母の望むようないい子でいなきゃいけないような気がして…

 

母の機嫌を損ねないように…

母の顔色を伺いながら、頑張っていたので窮屈でした。

(子供にとっては、母親の存在は大きいから当たり前なの現象なのかもしれないけど) 

 

3歳の時に家出を決意

大好きな母との生活にも窮屈さを感じ始めた3歳のわたしは、

近所の保育園や幼稚園の前を通る度に、

同い年くらいの子たちが、楽しそうに遊んでいるのを見て

凄くうらやましく思っていました。

 

同年代の子と遊ぶ機会を母は作ってくれていましたが、

わたしはどうしても、幼稚園に行きたかったんです!!

 

だけど、家の経済的な理由と母の「自分の手元で育てたい」という思いが相まって、

わたしの幼稚園へ通う夢は絶たれました。

 

家にいて、母と一緒に居れるという事は

大好きなお母さんと一緒で安心できるのですが、

わたしの場合は、幼稚園に行きたい思いの方が強く、

夢を絶たれた事が絶望的にショックでした。

 

そんな絶望感をいつまでも引きずるわけにはいかないので、

わたしは思いついてしまったんです!

 

「よし!お母さんに内緒で幼稚園に行こう!!」

 

そう!3歳で家出を決意した瞬間です。

 

そして、父と母の目を盗んで家出決行!

 

わたしの愛車「真っ赤な三輪車」に跨り、

向かう先は、憧れの幼稚園♪

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憧れの場所は、夢のような時間でした。

幼稚園の先生は、どこの子供か分からないわたしに

優しく接してくれて、

園児たちと一緒に遊具で遊ばせてくれました♪

 

楽しくて、楽しくて♪

 

達成感に満たされて、

チャレンジしてみて良かったと思いました♪

 

わたしは「やればできる!」って。

 

自信感も生まれていました。

 

 

 

 

 

でも、楽しい時間も長く続くはずがなく…。 

 

母のお迎えがきてしまうのです。 

 

人生を揺るがす大きな決断

幼稚園の外に、母の顔が見えた瞬間のかすかな記憶。

 

それは、どことなく寂しく残念に感じた事。

もっと遊びたい。もっとお友達をつくりたい。

 

その思いは叶うはずもなく、

わたしのチャレンジは余韻に浸ることもなく、

終わりを迎えたのでした。

 

家に帰る時、家に帰ってから、

母に怒られたのか?

母が悲しそうな顔をしていたのか?

母に何を言われ、どんな事を思ったのか、

全く記憶にありませんが、

 

この瞬間に、わたしのこの先の人生に大きな影響を与える決断をしたことは間違いありません。

 

「幼稚園に行きたい。」

一度は諦めた夢を、

自分の力で実行してみる。

そして、一瞬の成功と挫折を味わいました。

 

大きなチャレンジをしたい!でも、私にその夢を叶えられるはずがないんだ!

 

そう。

この瞬間から、

「チャレンジ精神旺盛な私」

「チャレンジすることに諦める私」

2人の私が共存するようになったのです。

 

これは、私の無意識エンジン装着のきっかけです。

 

続く。